昭和46年12月2日 朝の御理解
御理解代53節「信心すれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い、知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ、後で考えてあれもおかげであったこれもおかげであったということが分かるようになる、そうなれば真実の信者じゃ」と。
信心をさせて頂いて、え~段々分からして頂くことは、え~金光大神のお取次ぎを頂いて、起きて来ること、その金光大神のお取次ぎの働きが、え~、良い事に見えたり悪い事に見えたり、ね、するけれども、それは全てが、あ~金光大神のお取次ぎの働きの現われであると、と、おぉそれが確信出来る、そうなれば本当の信者じゃと言われるでしょうね、なら、あれもおかげこれもおかげと、言うことは、え~過去、過去においての、お~事も生きてくる、おかげではないと思うておった過去の事もおかげであると分かり、現実ふんまえておるところの問題、またはその難儀というものもです、これも神様のお計らい、神愛の現われとして、頂かしてもらえるようになる、ね、いうことと同時に、え~、あれもおかげこれもおかげと、ということは、え~ね、良い事も悪い事もと今日はここを頂いて頂きたいと思うですね、あれもおかげであるこれもおかげである、自分は、あ~これは困った事だと思っておることも、おかげである、勿論おかげを頂いてと思うておることならそれはおかげのことある、あれもおかげであるこれもおかげである、ね。
そういう私は、よく思い込みとか、あぁそういう信心が分からして頂いたら、いわゆる本当の信者、「真実の信者じゃ」とこう書いて、言うておられますその、本当に信心生活をさして頂く者の、おぉ有り難さ楽しさ、おかげは山ほどに(?)にあるのじゃないかと思いますね、「此の方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん」と仰せられる、ね教祖金光大神の、これは、あ~、言うならば、証のようなもの、言うなら言葉の裏付け、金光大神の言葉の裏付けというものがです、感じられますね、ね。
あれもおかげであったこれもおかげであった、ね、それを今日は、例えば良いと思うておる事も悪いと思うておる事も、本当言うたら神様のおかげじゃと、お礼を申し上げるより他にはないんだと、分かるということは「了解」と書いてありますよね、了解が出来ればになる、真実そうなんですよ、それをただ私共の、部が悪いと言うか、痛かったり痒かったり損をしたりということはですね、嫌な事だ困った事だと皆が思ってるんですね、けれどもうんなら、その事によっておかげを頂くということ、その事によって後々おかげを頂いて、「はぁ~本当にあれもおかげじゃったなぁ」と思うことが沢山ありますよね、で後から分かってみたら、私は喜びで開けた道ということにならないと思うんです、だからそこんところが、例えば了解が出来る、のですから、なるほどこれは損をした事になっておる、痛い事である、腹の立つ事であると色々ですけれども、実際見たらこれもおかげだと、神様のお計らいの中にあることだと、お取次ぎをはたらいっ、お取次ぎの働きの、おぉ(?)こうなのだと、いわゆる、まあここでは、え~皆さんが申しておりますね、「親先生の祈りの圏内だ」というわけです、ね、「親先生が祈っておって下さるその圏内に起きてきた事だから、それはおかげよ」と、こう言えれる心、または思えれる心、それが私は喜びで開けた道とおっしゃる、ね、だから喜びで開けるのであり、ね、叩かれりゃ痛い、痛いけれども有り難い、このようにしてお育てを頂いておるんだと、喜びを持って、ね、痛いけれどもお礼が申し上げられるということになるのである、あれもおかげこれもおかげということ、ね。
過去現在を通して、全てが生き生きとして、生きた生神金光大神の働きの、いわゆる輝きと言うならばね、輝かしいと言うならば、そういうような分かり方、いわゆる了解の仕方が出来る時と私は思う。
ようやく最近は世の中が「不景気だ不景気だ」という声が高まってまいりましたね、なら銀行関係なんかでも、そのためにやっぱりお金が、あ~だぶってくる、昨日も、え~、あれは、西日本相同銀行ですか、の、おぉ支店長、の方と、もう一人の二人でみえて、で色々、お~、討ち合わせがあっとりました、ここの経理と、それから委員長の久富正義さんと、三人で、え~、お話を、で昼からみえておるということで、したから、え~、これは今度はあの(?)の、お~、(?)を通して、え~まあ、こちらのお世話になるわけでございますけれども、あのそんなことの討ち合わせに、みえられたんです、それから向こうがみえておる内にちょっと、挨拶をさせて、え~頂こうと思うて、あぁ応接間でしたから応接間にまいりました、うんなんじゃけど、まあ挨拶がわりの、お話しをさせて頂いたんですけれども、う~ん、まあ言うならば、合楽教会の独自性とでも申しましょうかね、え~、まあ他所の教会と違ったところ変わったところ、え~、色んな話しさしてもらった中に、私が申しました、「とにかく教会という所は、あ~不景気になればおかげであり、景気になりゃなおさらおかげという所ですからね」と言うて、(?)してましたけれども、確かにそうなんですよ、ね、不景気になったと言やぁ、やはり、ね、色んな事が不明になってまいりますと、やはり神様と言うて拝み、または願い、お取り次ぎを願うてくる人達が多くなる、ね、そういう人達が段々景気になってくると、やれいよいよ有り難いということになって、ならまた多うなる、だから銀行員の方達が私の方に貸して下さることは、まあ心配は入りませんよという意味のこと、同じ景気になっても、不景気になるならなるほど、お参りは多うなるでしょうからと、いうような話しをしたわけですけどね、ですから銘々のそこんところがですね、不景気になればなるで景気になればなるでです、ね、一段と縋る信心と言うか、御礼の信心と言うか、ね、ね、どっ、どちらに転んでも、縋らなければおられんのである、ということがです、ね、おかげを頂かなければ立ち行かん、とにかく神様のおかげを頂かなければ立ち行かんということが、了解出来るからであります、ね。
今朝方私はお夢を頂いた、大変大きな教会の女の先生が、であります、非常に元気のある先生です、う~ん、もう何代も続いた、先生です、それに丁度、ならこがっ、バスぐらいな、あの自転車にこう後に、自転車に、リアカーを引っ張るようにですね、引っ張ってあるんです、それで後からその、そういう何か、(?)のバスの(?)のようなのが幾つかこう繋がってる中にいっぱい人が乗ってるんです、そして自転車で一生懸命、その(?)、下り坂なんですよね、ですからもう踏まんでんにゃ、その、下るわけです、それをもう、その踏んどりもせずにもうジャージャーいうごと下っておられる、もうカーブの所にこうまいりましたら、カーブの所のこう石垣になる所でガバーッと擦ってから、(?)こう回って、もう見とってそれは、もうみっとものような(?)、私は横からこうやってそれを見ておるわけですが、もう危のうして見ておられんというような、あの状態のところを頂いた、お夢で、ははぁなるほど、あれほど沢山の出社を持ち、あれほどの高徳の先生の後で、お徳のある教会、あれほど、お~大きな教会、あれほどの沢山の出社のある教会、の例えば人達がどういう風に行っておるかと言うと、ね、うん、これはなかなか、(?)立派で、とてもお話しなんかはもう、とても上手であります、けれどもならその~、ならさあ記念祭とかなんとかという時には、( ? )沢山参りますけれども、普通はそれこそ、お~、その死、状態なんです、それはどういうわけかと言うとですね、あんまり、言うならば我力が強いと言うか、力は強いと言うても我力ですねいわゆる、自転車ですから、自分の力で踏むということだと思いました、自分の自力と言うかね、自分の才覚と言うか、もう自分の才覚に任せて、ジャージャーやって皆ば引っ張って行きよりなさるという感じ、しかも先祖代々からの、おぉその、見易い道ですよね、下り坂のような道なんです、もう親が先代が、修行してあるから楽です言うならば、そういう所を、自分が引っ張って行きよるわけですね、我力で引っ張って行きよる、だから中ん乗っとる者も、何時どこでひっくり返るじゃろうかと思うように、とても危のうして危のうしてどんこんされんと、思うであろうが、枠から見よっても、そりゃぁもう本当に危ない、とてもあれには乗られんというような感じがするようなお夢でした、私初めて、え~、その先生のお夢を頂きましたがね、ははぁなるほど、自転車である、自分で踏むのである、とてもありゃ自分の力で踏んでもんどんしたっちゃ、とてもあぁ、(?)で止まらないと思うくらいなもう、とにかくこんな下り坂を、もうそれこそジャージャーいうごと下っておる、しかもカーブの所なんかは、ギュ―ッと、その回って行きよるけども、もうあんまり、そのカーブが急ですから、その自分の引いておる、それがでうす、この、そこの石の、併面の所にガバーッと擦ってですね、その~、こっちの壁の方も傷つきゃ、自分の方も、(?)の乗っとる方の車の方も、傷が付いておる、はぁとてもとても危のうして危のうして応えんと、私が思う(?)っちいうほど、お夢でした、ね、これは、あ~、知に力があればあるほどです、やはり自分の知恵で人を引っ張って行こうとする、力があればあるほど自分の力で、その皆を、を~、引っ張って行こうとする、いよいよいかん時には、先代の、こう名を出す、だから〇〇風ばかり吹かせてから、あの人の話しは聞かれんというのが、まあそこの出社の先生方、もう出社の先生方とても、そんなら何代目かですから、その思いがもうやっぱ薄うなっております、ね、そしていよいよの時には、そういう風に私も聞かせて頂いたんですけれど、誰からも聞かせて頂いたんですけれども、いよいよん時には〇〇風ばっかり吹かせちからという風に、そりゃ素晴らしい事言いよりなさるけれども、〇〇風ばかり吹かせてというような、受け方頂き方しか出来ないようことになっておる、ということです、ね。
本当にね、もう信心、お道の信心というのはもうどこまでもね、だから言うならば、馬鹿でもチョイでも良いんだと言うのです金光様の御信心は、ね、自分の力が無ければ無いほどいいのです、おかげは、それを信心をさせて頂いて分からして頂くことは、いよいよ自分自身には力がないんだという、我無力であるという、いわゆる本当の姿を自分で分かるようになるのです、いわゆる教祖様、「障子一重がままならぬ人の身だ」とこうおっしゃる、いくらバタバタしたところで、自分の知恵やら力でどれだけの事が出来るか、良しやってみる、と言うて、知恵がある人才覚がある人は、自分の力でバリバリするがとやりよるけれども、中に持っておるものはヒヤヒヤである、(?)にはいつ、大事故が起こるであろうかと思うて危のうして応えんというのが私はそれだと、これは信心をぬきに他の方でもそうです、ね、世の中にやり手というのがあります、そりゃぁもうそれこそバリバリやってのけるという人があります、けれどももし本当の事が分かった、一目それを見ておったら、危のうして応えん、それこそ一本橋を渡っておるような危ないです、人間の力でやっておるということなどは、ね、だから、(チョイや先代無し?)というような結果が生まれてくるわけなんです、ね、そこで金光様の御信心さして頂いてです、いよいよ、ね、本当のことが分かる、ね、その本当なこととは、自分に大抵、腕に自信があるとか、頭が良いとかと思うておったけれども、その知恵でも腕でもです、神様のおかげを頂かなければ出来ることではないということ、いわゆる障子一重がままならぬ人の身であるという、ね、その実相に触れた時です、私共はあなたのおかげを頂かなければ出来ることではないということになる、ね、久留米の初代は、「この世は徳の船に乗って渡れ」とおっしゃった、ね、神様のおかげに、よらなければ出来ることではないという、神様任せの例えば船に乗らせて頂くということ、乗り物に乗らして頂くということ、それが本当なことが分かれば分かるほどそうなのです、ね、段々、いわゆる、本当の信者ということになってくるわけです、ね、本当の信者じゃと、本当とはここでは、「真実」と書いてあります、いわゆる、真の信者じゃということです、だから真の信者にならせて頂く、真の道を分からしてもらう、真の道を分からしてもらうから、その真の道を歩かしてもらう、ね、それが真の信者である。
昨夜の月次祭の後の御理解の中に、私は求道という言葉をいくつか使いましたですね、求道、道を求めるとこういう、ね、これは、特に、い~、宗教関係で使われる言葉ですね、求道の一途を辿らしてもらう、その道の奥賀を極めて行こうとこういうのですね、そこで、あるいはおかげの体験を積んで行きながら、あるいは教学によって、その信心のいわゆる奥賀を尋ねるわけです、ね、いわゆる御本部で現在、例えば、あ~、お道の教師になるための学院があります、ね、学院生の方達はそういう意味での求道生活を続けておるわけであります、これは学院生だけであってはならない、やはり信条っ、信者一人一人がやはり求道生でなからなければならないと思う、言うならば道の行者でなからなければならないと思う、ね、そこでその道を求める、求め具合と言うか、ね、ね、求道の言わば焦点を間違えて、いくら精進しても本当なところを、には出られない、本当なところと言うのは、真の道に出られない、真の信者にはなれない、ただ頭でっかちになってしまうだけではいけん、頭百斤尻5斤、頭でならば信心のどげなこっでん分かっておるけれども、ね、実際ならおかげは伴わないというような求道では駄目でしょう、ね、ですから金光教で言う求道と言うのはね、私は違うと思う、ね、道を求めたら求めただけ、与えられたなら与えられただけ、分かったなら分かっただけ、おかげの方がはっきりしてくるのでなからなければいけないと思う、お道の言わば信心を求めるということは、ね、明日に道を知ったら、ね、(?)といったような言葉がありましょう、ね、金光様の御信心の私はね、道というのはそんなもんじゃないと思う、明日に道が分かったなら、いわゆる朝に道が分かったなら、ね、夕方はいよいよ元気になっておらなければならない、いよいよおかげを受けておらなければならない、そんな儚い話しがあるもんかと、明日に道を分かりさえすれば、もう夕べに死んでもいいというのだ、ね、それが頭でっかちで、的な分かり方、のものであったら、そりゃ分かりさえすれば良いというのであったら、ね、ただ分かりたい分かりたいと意欲を持っておるから、こんなことが分かったんだから、もう晩な死んだっちゃ良かというようなことでしょうけども、金光様の信心は決してそんなことじゃないと思う、本当に明日に分かったなら夕べはもうおかげを頂いておる、そういうです、生生しいおかげが伴のうておらなければ、お道の信心の求道ということにはならないと思う、ね。
ここで了解とある、分かるということ、ね、うんならどういう事が分かるかと言うとです、あれもおかげであったこれもおかげであったというようなことが了解出来ると、ね、昨日青年会長の嘉郎さんが頂いたように、求道とは、ね、神が求め給うそれに応えるということだということ、お道の信心の求道というのは、ね、天地の親神様が氏子一人一人に求め給うところの、御事柄と言うても良かろう、ね、教祖金光大神が私共に求めて下さるところのものに、それに応えて立ち上がるということが、そのまま求道になるのです、ね、そういう私は、頂き方をして行くことが、真の信者にならして頂く、ね、あれもおかげであったこれもおかげであったと分かる、分かる、了解が出来るようになると真の信者じゃという、そのところを了解さしてもらえる、分からして頂くためにです、私共は求道生活に入らなければいけない、その求道生活とは、天地の親神様が一人一人の氏子に願われておられること、求めておられること、その求めに応えて立ち上がらして頂くということ、ね、神様が私に何を求めておられるかということはです、分からして頂いたらその事柄を、ね、押し頂いて、頂いて行くという生き方こそです、私は了解が出来る、真の信心じゃと、真の信者、それが分かれば、ね、分かるようになるそうなれば真の信者じゃとおっしゃる、真の信者である、の道を、ね、ひたすら歩かして頂くことが出来る、ことになるのです、しかもそういう頂き方になればです、これはもうおかげは絶対のもの、ね、朝の御理解を頂いて有り難かったけん晩な死んだっちゃ良かっちいうごたるこっちゃなかっち、朝の御理解を頂いて、ね、道を分からして頂いたら、もう今日一日が有り難くて楽しゅうして、そして夜、夜にはとにかく、広大無辺なおかげを頂いてと、お礼を申し上げる答えだけしか出てこないのが金光様の御信心であり、または、お道で言うところの求道とはそれだと私は思うです、それをあらゆる角度からというて、間違った方角から求道したところでです、いわゆる頭でっかちになる、ね、頭百斤尻五斤というようなことになって実の伴わない信心になってしまうのでございます、確かに信心はそれは目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多いと、その事実をです私共は分からして頂くために、自分の我力は捨てなければ、ね、いわうる本気で障子一重がままならぬ人の身である、我無力であるということをです、ね、ひとときでも早く悟らしてもらい分からしてもろうて、あなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのだということになる、ね、そういう事になってくる時にです、不景気になりゃ不景気になったでおかげが頂けれる、景気になりゃ景気になったでなおおかげが頂けるというようなおかげが頂けれるのがお道の信心だと思うですね。 どうぞ。
入力者:誠輝